百二十円のお金で二百本の苗木が買えました。 その苗木を近くの

昭和20年代

林の中に植え、そして、五本ほどは、庭に植えました。 長男も手伝い
ました。    やがて、戦争は日本が負けて終わりました。
 林の中に植えたリンゴの苗木は、黒田さんの丹精のかいもなく、日
あたりが悪いせいもあって、ひょろひょろでした。 でも、庭に植えた
リンゴは大きく育ちました。  作付統制令が解除されると、黒田さんは
、まっていたように、畑にリンゴを植えました。
 リンゴの産地にいっては、勉強もしてきました。
 そして、昭和二十四年(1948年)、ついにこの地でも、リンゴの実が
生りだしたのです。  それから、リンゴをつくる農家が年々ふえてきた
のでした。  いまでは、奥久慈観光リンゴとして、有名です。 黒田一
さんも、この地に、はじめてリンゴを植えた人として、広く知られるよう
になりました。
 リンゴ園には、たくさんのお客さんがやってきて、よく熟したリンゴを、
自分でもぎとって買っていきます。 幼稚園の子どもや小学生たちが、
観光バスで、もぎとりにやってきます。
 黒田リンゴ園は、長男夫婦から孫夫婦へとひきつがれています。
黒田さんと苦労をともにしたおくさんは、昭和四十九年になくなりました。
 「リンゴが実ったら、たべにこい! おまえのかわりに植えたリンゴ

黒田一・きよの 夫妻

なんだから・・・・・・」
 黒田さんは、栗毛の馬にいうように、そうつぶやきました。
 1996年一月二十九日、黒田一さんは、九十七歳の生涯をとじました。
  子や孫に幸多かれと祈りつつ 前田の里に 我は朽ちなむ
 黒田さんの日記の中に、そう書いてあったということです。
農業の雑誌で、神奈川県でもリンゴがつくられることを知っていたので、
大子でもできるのではないかと思ったのです。 この小生瀬は、大子
でもとくに寒く、昼と夜の寒暖の差が大きいところです。  かえって
リンゴの栽培に適しているのではないかと思ったのです。

 つぎの年の春、埼玉県の安行から、リンゴの苗木をとりよせました。

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 だが、はたして、この地でリンゴが実るだろうか・・・・・・。 黒田さんの
気持ちは、すこしゆらぎました。  しかし、考えはかえませんでした。