昭和19年、第二次世界大戦の末期、生瀬村(のち大子町に合併)
かわいがっていた馬が国に召し上げられた代金を使うに忍びず、そ
の金で記念としてりんご苗を購入して植え付けました。これが奥久慈
にりんご栽培をもたらした始まりです。
当時、食料が極度に不足し、不急、不要の農作物の作付けは強く
の人達も、恐らく植えても「りんご」は成らないだろうと言い合ってい
ました。
戦後(昭和20年)黒田一の長男、宏が父の志を継いで「りんご」栽
培に挑戦、わずかな文献を探したり、長野県や山形県のりんご栽培
もぎとりに訪れるようになり、観光りんごとして知られるようになり、
農家を訪ねたりして技術の修得をはかり、ここに茨城県で初めて
その後、この成功をみて「りんご」栽培を始める農家が数多く出現
し、大子町に現在約80haのりんご栽培をみるに至りました。そして
奥久慈りんごが珍しいということで、水戸、日立等周辺の人達が
今では、千葉県・埼玉県・東京等からも沢山の人達がやって来る
ようになりました。
現在、黒田りんご園は黒田宏の長男恭正が経営にあたり、奥久慈
りんごの生みの親としての誇りと面目にかけて、どこよりも美味しい
りんご作りに情熱を燃やしています。
禁止されていて、果樹類などを普通の畑へ植え付けることなどは出
来なかったので、近くの比較的平坦な雑木林に苗を植えたのでした。
「りんご」栽培に成功しました。
の黒田一(現在の黒田りんご園初代園主)の家で飼っていた農耕用
の馬が、軍馬として動員され強制買い上げになりました。黒田一は、